そろばんと脳とコンピュータ そして科学のゆくえ

河野貴美子(かわの きみこ)先生

元・日本医科大学 情報科学センター所属
国際総合研究機構副理事長

脳科学

はじめに

 人間の英知花開くはずの21世紀が、いささか不穏な幕開けになったが、残念ながら、科学の成果と争い・戦争は切り離せないのが実際のところであろう。計算・数学の歴史的変遷をたどって見ても、食物の奪い合い・分配から、やがて敵の攻撃を防ぐための砦や城壁構築のための代数・幾何へ、そして弾道計算の微分方程式へと複雑になり、第二次世界大戦ではその計算のためにコンピュータが生み出された。
 もちろん科学の成果を否定するわけではない。科学は私たちの生活に多大の恩恵を与え、原始社会とは比べものにならない快適な生活が可能になった。軍事のために急がれた開発とはいえ、コンピュータはいまやそれなしではほとんど暮らしが成り立たないところまで生活に入り込んでいる。
 しかし、"モノ"としての科学の急速な発展から、"ひと"さらに"人間 "に目を向け始めて、科学の方向性にも多少見直しが求められ始めているのではないだろうか。21世紀は生命科学、それも脳の時代、そしてさらに心の時代といわれている。どこまでも細かく部分に分け入ってきた科学から、もう一度全体を見直そう、切り刻むことで見失ったもの、部分を単に足し合わせても見えてこないものの重要性に気付いて、統合的な視点を取り戻そう、という動きが出始めている。
 心を考えるに欠かせない脳の科学もこれからは単なる分析科学ではなく、総合的な視点、構造と機能の動的な結びつきが問題になってくるはずである。
 そこでまず、ヒトの脳の発達をたどりながら脳について、また頭の使い方について考えてみたい。

頭の良し悪しは

 コンピュータにおいては記憶容量が大きく、クロック(動作時間)が速いものほどすぐれていることになるが、ヒトの脳ではクロック、すなわち神経細胞に発生する活動電位の動作時間は、イオンの出入りのスピードで決まり、頭の回転が速い人も遅い人もそこに違いはない。また、訓練で変わるものでもない。
 では、容量の方は大きければ大きいほど、すなわち脳が大きいほど頭が良いといえるのだろうか。ただ大きいだけなら、ヒトはクジラやゾウにとてもかなわない。しかしこれらは体重当たりの脳の重さを考えれば、ヒトよりずっと小さいことになり、一応納得できる。しかしながら、体重当たり一番大きい脳を持っているのがヒトというわけでもない。体重の軽いマウスや、さらにハチドリなど体重あたりの脳重はヒトより重い。
 容積、重量、しわの数、表面積等々、外見的に割り出せる数量からヒトの脳を一番にするような指標はなかなかみつからない。人どうしを比較しても、すばらしい業績を残した著名人の脳がみな平均より重いわけではないらしい。

 とはいえ確かに、ヒトの脳は類人猿から原人へ、そして現代人へ、その容量を増やしてきた。図1でわかるように、特に類人猿から原人へ移行するあたりから急速に増大している。それはおそらくそのあたりの段階で言語を獲得し、それが脳の急成長をうながしたのだろうと考えられる。その後、言語能力、情報処理能力が増すにつれ、さらに大きくなっていったが、ネアンデルタール人のあたりからはその成長度合いがにぶりだし、その後ほとんど大きさは変わっていない。それは、その頃から情報を脳以外の外部に貯えることができるようになり=cd=ba52=cd=ba52つまり文字が生み出され、脳はもはやそれ以上大きくなる必要がなくなったとも考えられる。もちろん産道を通りうるぎりぎりの大きさであるなどの動物的な制約要素を考える方が自然で、その制約から必然的に外部メモリーとしての文字が生み出されたという結び付け方もできるが=cd=ba52=cd=ba52。
 いずれにせよ、脳の情報処理という側面からそのような見方をするのも面白い。現代人の脳は単に生きるための指令塔でも、外からの刺激に反応するだけの器官でもなく、大量の情報を効率的に処理し、有効に活用する器官になったのである。

連合野のはたらき

 それは構造面から見れば、大脳新皮質、それも連合野といわれる部分の発達である。連合野とは図2の白い部分である。この図の斜線部分は外からの情報がまっ先に入るところ、すなわち第1次感覚野といわれるところで、動物でも当然有している。ここに入力された外からの視覚、聴覚などさまざまな情報を連合させて処理するところが連合野といわれる部分で、動物が高等になるほど大きくなる。そしてヒトの大きな特徴は、この連合野の中でも前頭葉(図は脳の左側面で、この図の左が前頭部を示している)が他の動物に比べ非常に大きいことである。それぞれの情報を統合的に整合性を持った処理をするのが前頭葉であり、意欲や推察、創造性など、人間を人間たらしめている場所といってもよいかもしれない。
 要するに脳の大小ではなく、人間らしい部位でどのように情報を処理しているかが問題である。計算ひとつとっても、連合野の働きがなければ何もできない。まず、計算しようとする意志、文字を見て、理解し、演算の過程をイメージに浮かべながら、結果を言語に置き換え、・・という一連の流れが統一的に行われて始めて答えが出る。ヒトはそのような作業を小さい時からさまざまな場面で繰り返すことにより、試行錯誤で神経回路網を構築していく。従って、この複雑な回路をどう作り上げていくかが頭の良し悪し(それがIQで示されるものであれ、EQであれ)の最大のポイントであろう。

外部メモリーとしての道具

 そして人間は、さらに外部の記録情報や道具との間でも情報交換しながらより高度な情報処理を可能にしてきた。文字は前述の通りその一つであるが、そろばんももちろんそんな道具である。しかし計算をする道具としては今やコンピュータという道具にかなわない。
 そろばんが数や式の一時的な外部メモリーとしての道具であるのに対し、コンピュータは論理処理作業のかなりのパートまで外部に託してしまった道具である。スーパーなどでの買い物では、暗算の方が便利で早いとはいえ、レジもコンピュータ化され、各家庭にもパソコンが入り込んでいる現在、誰もが必要性を実感するということはなくなってしまった。しかし、便利かつ楽であるがゆえにこの強力な外部補助システムを外付けの脳の一部としてうまく利用する以上に、安易に頼り過ぎる傾向が見られないだろうか。電子レンジでチンとするだけ、お湯を注ぐだけ、というような即席的な解法を求め、すべてにじっくり取り組む、つまり脳の中でしっかり情報処理して、その結果をアウトプットに結び付けることの少なくなった脳は、そういう環境に合わせた回路を作り始めているような気がする。
 もちろん、電卓やパソコンで計算させても、見る、指を動かすなど、それなりに脳を使ってはいるが、それはかなり受動的な使い方、つまり外部からの情報に単純に反応するだけの1次感覚野主体の使い方である。連合野をしっかりと働かせた、自分なりのイメージや処理方法による能動的な使い方とはかなり違うはずである。
 繰り返しになるが、脳を良く使うということは、連合野をしっかり使うということである。それにはまず意欲、そして目からの情報、耳からの情報、身体の各部からの感覚、それらを総合して自分なりのイメージを作り上げ、最終的に言語や身体の動きという出力に持っていく、この過程をそろばん学習ではしっかり使っている。
 ある一定の作業に対して上手になる、速くなるというのは、前述したように神経細胞膜を介してイオンの出入りが速くなるのでも、中を伝わる活動電位が速く動くのでもなく、一連の過程の中で細胞から細胞への情報の受け渡し、つまりシナプスでの受け渡しがスムーズになり、そしてまた、回路が整理整頓されていく過程である。あちこち脳の中をまわり回ってやっと一つの結論に至っていたものが、訓練を積むに連れ、常に使われる回路はどんどん強化され、いらないものは整理され、効率的になってくる。つまり、計算を例に取るなら、早く正確な答えを出せるようになる。
 しかし、そこでそれに甘んじてしまってはいけない。一番効率的な回路が出来上がると、あとはさして苦労して考えなくてもよくなり、無意識に電卓をたたくのとあまり変わらない操作になってくる。それは自転車に一度乗れるようになれば、あとはいつでも乗れるようなものである。さらに難しい乗り方にチャレンジするなり、自転車には乗れさえすればOKなら、また別の新しいことにチャレンジするなり、常にものごとに挑戦し続けることが脳にとって非常に大切である。

 脳は使って使い過ぎるということはない。使うほどに細胞からの枝を伸ばし、シナプスを増やし、必要な回路を作っていく。年齢的に若い方が枝の伸び方が速いのはもちろんだが、年をとっても必要なところには新たな回路ができる。しかし、使わないところはすぐ抜け落ちていく。脳は年をとっても非常に柔軟に対応してくれる器官なのである。

これからの科学は

 脳を科学することは、こころと向き合うこと。切り刻んで分析してしまっては見えてこないが、生きた人間を相手にその思考過程を見ているとやはり意識や心に行き当たる。脳は、原始的な生きるための脳幹部、そして爬虫類の脳から哺乳類の脳へと階層的な構造を持つ。私は、その階層間での情報のやり取りの中にそれぞれのレベルにおける意識があると考えている。最終的にヒトでは左右の脳が分化し、左右間での情報のやり取りの中に言語を介した顕在的な意識が生まれた。そして今回、さらに外部との情報のやり取りを考えてみた。
 顕在的な知性の意識を持ち、その意識活動を脳の外にまで拡げていった人間は、外に作り上げた環境に身をゆだねてしまうのではなく、自らの脳を積極的に働かせ、外界と共に成長していかねばならない。

 そして、何より21世紀の科学は、戦争のための科学から人間のため、さらに環境を含めた人類のための科学にならねばならない。それは私たちそれぞれの脳の使い方にかかっている。人間の視点を科学の中に取り戻すための教育を珠算界に期待している。