日本そろばん(2)

江戸時代

商業の発達や寺子屋の隆盛により、武士や商人の間で広く用いられました。また、日本の数学「和算」の研究家(和算家)が多く出ました。

【割算書】(1622年)

日本に現存する最古の数学書。毛利重能著。わり声(わり算九九、中国から伝わる)が記されています。 毛利は京都に「天下一割算指南」と称して、そろばんや和算を教えています。

【塵劫記】(1627年)

吉田光由が著した数学書。わり算やかけ算のやり方を、そろばんの図解入りで記しています。また、当時の商人や職人が仕事の上で使う計算法も述べられており、平方根の計算法も図解入りで記されています。この書の形態や内容は、明治時代まで「○○塵劫記」という名で受けつがれ、「塵劫記」という名は、和算書の代名詞となりました。

【大数学者 関孝和】(生年不詳~1708年)

江戸時代の大数学者。数学の微分・積分の分野で、ニュートンとならび称される業績を残しました。

明治時代

明治5年、学制発布とともに西洋の数学の採用となり、そろばんは和算とみなされ、学校教育では指導されないことになりました。ところが、洋算(筆算)の指導法も確立していないこともあって、翌6年、長い伝統を持つそろばんでの計算指導も認めることになりました。

そろばんの改良

日本のそろばんの玉は、中国の丸型と異なり菱形になっています。そして、五玉1つがなくなるようになりました。
さらに、乳井貢の「初学算法」(1781年)では、一玉も4つが良いと書かれています。明治・大正時代になっても、五玉1つ、一玉4つのそろばんを提唱する人が現れましたが実現しませんでした。
昭和10年(1935年)になって、小学校の教科書(緑表紙)の改訂で、一玉が4つ、四けた区切りの定位点がついたそろばんがよいと指示され普及しだしました。(四けた区切りは、日本の数詞にあっていたからです)

戦後になって、定位点も西洋式の三けた区切りとなり、現在に至っています。