右脳開発における珠算教育のあり方について

林 壽郎(はやし としお)先生

大阪府立大学名誉教授
元先端科学研究所所長

生体材料設計学、医療用粘着・接着剤

少子高齢社会の到来と対策

 我国は今や、少子高齢社会の現状から逃げることはできません。なぜ14才未満人口が急激に減少したのかという理由はいくつか考えられますが、その1つに、地球環境の悪化も忘れてはなりません。2020年までの人口傾向のコンピュータ予測によっても、我国はさらに少子高齢化の傾向が強まるとなっております。珠算検定の受験者数が減少しているとのことですが、これからは珠算教育も多様化を図り、高齢者も受験できるような新しいシステムを構築することによって、幅広い珠算検定受験者を獲得するだけでなく、生涯教育・学習の機会を生み出し、珠算のもつ独自の教育効果による社会貢献に資することを考えて頂きたいと願う次第です。
 私自身は、大学では工学を修め、主に高分子材料の研究をしておりましたが、20年程前から医療に役立てるための材料を開発する研究をする機会を与えられました。急激な高齢社会を迎える我国においては、これまでの医療技術や知識の急激な進歩のお陰で多くの患者が助けられるようになりましたが、国民医療費もますます増大するようになり、このままでは将来が思いやられます。重い病気や怪我をした患者を救うための研究も大切ですが、それ以上に病気にならず健康な生き方を探ることがもっと大切だと思うようになりました。国民介護保険制度も走りだしましたが、何よりもそのお世話にならずに健康で楽しい生涯を貫くことが第1です。
 昔から「病は気から」と言われています。最近までの医学の研究からも、多くの病気が本人の心の持ち方で大きな影響を受けることが明らかにされてきました。活き活きとした頭を持った人はいつまでも元気で若々しい輝きを持ち続けられます。頭の働き(脳の活性)を高めるためにはどうしたら良いのでしょうか。

人間の脳の発達

 私達の脳はどのような構造をしており、どのように発育していくのでしょうか。大脳生理学という学問もこれまで大きな進歩を遂げてきましたが、それでも未だ解明されないことも多く、脳は本当に不思議なものです。これまでに明らかにされてきたことでは、人間の脳は胎児の早い段階で造られ、誕生までに脳神経細胞が出来上がるとされています。脳の中でも、脳幹(どの生物にもあって、心臓や内蔵を動かして生きていくために必要な機能を制御している)や大脳古皮質(食欲、性欲、睡眠欲、集団欲などの本能と快感・不快感・怒り・恐れなどの情動を司る)は胎内で基本的に完成してしまいます。
 一方、高等生物、中でも人間のみに発達した大脳新皮質は神経細胞(140億とも称される!)は造られますが、未だ十分には働かないままで生まれてきます。その後、適切な刺激を受けることによって新皮質の神経細胞の活性化(運動神経と感覚神経との連絡)が始まります。そのため、誕生後に新皮質の神経細胞を発達される刺激を上手に受けられた子供は立派に成長していくわけです。古皮質はある程度完成して生まれてくるのですが、勿論生まれてからも、さらにその完成度を高めて行きます。ここで大切なのは、古皮質は「愛されること」を強く求め、それによって活性が高まり豊かな情操を育て上げるということを知ることです。
 人は「愛されること」なしには育つことはできません。愛されて育った人だけが「愛すること」を習得できるのです。豊かな古皮質の助けにより、大脳新皮質は効率良く活性化されます。いくら努力しても、古皮質の協力が得られなければ能率が上がりません。新皮質の神経細胞を活性化させようとして、外から刺激を与えたとき、まず古皮質がその情報を「快」と捉えたとき、脳の活性は上昇し、新皮質での情報処理に対する仕組みを最も効率よく仕上げることができます。反対に「不快」と捉えたときは活性が抑えられて、新皮質の成長も抑えられてしまうのです。このことを忘れてはなりません。

指を動かす、大きな声を出す

 さて、新皮質の神経細胞の活性化とはどういうことでしょうか。新皮質の神経細胞は、140億組の感覚神経と運動神経のセットのようなもので、この両者が巧みにお互いが連絡しあう網目(シナプス)を作り上げて初めて生きた神経系となるのです。一生涯でどれだけ多くの組合せを活性化させるかが勝負となるのです。活性化の引き金は「刺激」を与えることです。指を動かすこと、声を出すことは、大脳新皮質の運動―感覚野の広い領域で効果的な刺激となり活性化につながるのです。その意味では、できるだけ早い時期から、ソロバンを学習することは脳の活性化に役立つといえます。
 しかし、いやいやソロバンをはじいていても効果はありません。ソロバンを「好き」になり、楽しくソロバンをはじくことによって初めて効果が生まれてきます。まず、小さい子供たちにはソロバン好きにしてあげることが大切なのです。

珠算式暗算で右脳開発

 人間の脳には右脳と左脳があります。形はよく似ていますが働きに違いのあることが次第に明らかにされてきました。左脳はデジタル脳ともいわれ、読み書き、演算、論理的な思考などを司り、右脳はアナログ脳として、立体感覚や創造性、芸術感覚などを司り、両脳が互いに協力して人間らしい活動をしています。日本人は日本語を左脳で話すために、日本語をマスターしながら左脳はどんどん強くなっていきます。それに対して欧米人は言語マスターに右脳も大きく活動させるため、本来、右脳が強くなります。日本の子供達が同年令の欧米人よりも計算が強いのは当然であると同時に、欧米人が一般に日本人よりも創造性・独創性に優れているのも言語脳のなせる業です。
 最近、我国でもベンチャー育成の必要性が力説されてまいりましたが、そのためには先ず、右脳を鍛える教育・技術を開発しなければなりません。また、右脳を鍛えておけば痴呆になりにくいという報告もあります。
 そこで、珠算式暗算の登場となります。珠算式暗算は頭の中でソロバン珠を組立て分解させて演算を進めるわけで、アナログ脳としての右脳の鍛錬に役立つであろうということは早くから想像されていました。最近までに、大脳生理学と脳の血流を精密に測定できる機器の開発により、珠算式暗算が右脳活性化に極めて有効であることが実証されるようになり、これまでの推論の正しいことが明らかとなりました。
 従って、珠算の先生方に特にお願いしたいことは、簡単でも結構ですから、すべての子供達に珠算式暗算を教えて頂きたいということです。暗算までマスターして初めて珠算学習は完成することになります。

輝いている脳

 成長してから色々な職場で社会人として働き、一家の生計を支えるだけでなく社会貢献に勤め上げた後、やがては第一線から勇退して第二の人生を歩み始めた高齢者にとって、健全で豊かな生涯を貫くことが最も大切なことですが、そのためには生涯変わらず、脳の活性化に励むことを忘れてはなりません。脳の活性化の手段は色々あります。その中で、再び「珠算」が登場してきます。
 ソロバンは「指先運動の最高の手段」であるだけでなく、珠算式暗算として「右脳の活性化」に大きな威力を発揮します。脳神経細胞の活性化は成長速度こそ多少の遅れがあっても、百才になっても確実に達成されるものなのです。この場合にも、先ずソロバンを「好き」になることです。「好きこそものの上手なれ」という言葉は人間一生を通して真実です。古皮質と新皮質が生涯を通して仲良く協調できた人こそが「達人」であり、そのためには、人生のどの段階においても常に「高い目標」を持ち、それに向かって進んでいくプロセスに人間の幸福があり、生き甲斐感や希望を持ちながら独自の目標達成に挑戦して生きることで人は輝くのです。
 成長の目標は高いほど良く、その高きに向かって進もうと努力するプロセスこそが人の生きる目的とすれば、珠算教育はその一つの大きな指針となるのではないかと私は信じているのです。「ソロバンと一緒に生涯健康人」でありたいものです。

(本稿は、2000年7月30日、栃木県の日光鬼怒川で開催された「日本珠算連盟全関東珠算懇談会」 (隔年開催、幹事・栃木県珠算連盟連合会)における講演要旨です)

講師紹介、主要著書・論文

略歴 1939年 滋賀県大津市3月18日生まれ
1962年 大阪府立大学工学部応用化学科卒業
1967年 京都大学大学院工学研究科修士課程終了
1973年 京都大学工学博士号取得
1975年 米国ケースウエスタンリザーブ大学客員研究員
1981年 京都大学医用高分子研究センター助教授
1994年 大阪府立大学付属研究所教授
1995年 大阪府立大学先端科学研究所教授
2000年 大阪府立大学先端科学研究所所長
2002年 大阪府立大学名誉教授
2011年 滋賀医療科学大学院大学教授
専門 生体材料設計学、生分解性高分子合成、天然高分子、医療用粘着・接着剤、固定化酵素、環境調和型材料設計
受賞 1987年 日本繊維学会賞(医療用繊維の研究)
1999年 日本バイオマテリアル学会賞(生体材料の基礎と応用)
論文等
  1. 「合成ポリペプチド設計と生体材料としての応用(第4報)水溶性合成ポリペプチデ修飾リパーゼによる(-カプロラクトン)繊維の酵素分解」 共著/2009年4月/日本接着学会誌45巻4号,pp.124-129
  2. 「医療用粘着・接着剤の動向」接着の技術 Vol.27 No.2(2007)ほか
  3. 「医療機能材料高分子学会編」共立出版 (1990/11)